1 菜々美は最近、空中に浮かぶ電気ケトルの夢を見る。 夢は日によってわずかに細部が違っていたが、だいたいのシチュエーションはいつも同じだった。 彼女は草ひとつ生えない赤茶けた台地に立っている。空はきまって雲ひとつない晴天だ。中天に差し掛かった太陽が台地の粗い砂粒をしらじらと焼いている。ほとんど風も吹かず、どのような音もしない。卑小さの排除がその夢の基本的なコンセプトであるらしい。ほどなくして、時代遅れのブラウン管のスイッチを百基ほど一度に入れたときのようなブーンという唸りがあたりに響きわたり、巨大な電気ケトルが現れる。どこからやって来たのか、いつからそこにいたのか、正確なことはわからない。突如として彼女の頭上数十メートルのところにそれは出現する。あまりに空が青く、比較するものがまわりに何もないので大きさの見当をつけるのは難しい。一般的な家電製品にしては大きすぎ、三人家族がつつましく暮らすにはやや狭い。それくらいのサイズだ。 電気ケトルは空間の一点に静止したまま微動だにせず、菜々美もまた身じろぎひとつせずにそれを見つめる。十分ほどの出来事のようにも思えるし、数時間が過ぎ去ったような感覚もある。あらゆるものが引き延ばされた夢の中では、時間はさしたる意味を持たない。艶消しの施されたステンレスの鈍い光沢が菜々美の瞳にオレンジ色の残像をつくる頃、彼女は唐突に目覚める。 非現実的なたぐいの夢ではあるが、菜々美自身はそのような夢を定期的に見ることについて、特にどのような感想も抱かなかった。それは悪夢や予知夢と呼ぶにはあまりに象徴的すぎた。たとえそれが彼女の過去のトラウマや、現在の精神状態や、近い将来に辿る運命を暗示しているとしても、さして悪い兆候のようには思えなかった。なにもUFOや宇宙船と出くわしたわけじゃない。それは電気ケトルであるかぎり、無害な暗示の域にとどまっている。 ☆☆☆ 目を覚ますと、秋斗はすでにベッドの上で体を起こしてスマートフォンをいじっていた。 「おはようございます」と秋斗が言った。なんとなく演技がかった微笑み方だった。 「おはよう。いま何時?」と言って彼女は体を伸ばした。「ちょっと寝すぎちゃった気がする」 グレーのカーテンのすき間から陽の光が鋭角に差し込んでいる。正午は過ぎてないだろうが、もう朝と呼べる時間でもないだろう。 「十時四十五分です。あんまり気持ちよさそうに眠っていたから、起こせなくて。今日は予定あるんですか?」 彼女は壁掛けのアナログ時計の針が指し示す時刻を半ば義務的に確認し、その隣に掛けられた夾竹桃の水彩画をしばらく眺めた。それから枕に片肘をついて上体を起こし、秋斗の方を向いた。彼はスマートフォンの画面から目を離さなかったが、唇の端がわずかに震えたような気がした。もしかするとこの人はずっと前から起きていて、わたしが目覚めるのを待ち構えていたのかもしれない。それは悪くない気分だった。 「夕方五時に隣町の透析病院まで父を迎えに行かないといけないの。夜は友達とご飯に行く約束をしてる」 そう言いながら彼女は部屋を見回した。極端に物が少ない部屋だった。ベッドの他には、机とPCモニターと三段組のスチールラックと、サンスベリアの植木鉢くらいしか物がない。そのせいで部屋は実際よりかなり広く見えた。全体としては感心するほどよく整頓されているが、どこかしら作りこまれたようなところがあって、それが彼女を落ち着かない気持ちにさせた。 秋斗は菜々美が窓際のサンスベリアをじっと見つめていることに気がついた。しばらく水やりを怠っていたせいで、葉の先端がしなびて変色しかけている。あらためて見ると、それは植物というより、前衛的な傘立てを思わせるところがあった。 「それじゃあ、お昼は空いてますか?」と秋斗は訊いた。「近くに美味しいパスタを出す店があるんです」 菜々美はすぐには返事をしなかった。彼女はまだ真剣な表情でサンスベリアを見つめている。秋斗は自分の声が部屋の四方の壁に吸いこまれていく錯覚におそわれた。しかしもちろん秋斗の言葉は彼女に届いている。彼女は額に落ちかかった髪の束を人差し指に絡ませ、何かのしるしみたいに少しだけ持ち上げてから放した。 「いい提案ね」と彼女が言った。「それじゃあ申し訳ないけど、シャワーを借りてもいいかしら?」 秋斗はクローゼットの奥の収納ケースからなるべく新品に近いタオルを探し出して菜々美に渡した。彼女がシャワーを浴びているあいだに、一番最近洗ったジーンズに履き替え、ノースフェイスの白いヨットパーカーを頭から被った。それから除菌シートで机と床を拭き、サンスベリアに水をやり、電気ポットに湯を沸かした。それだけやっても菜々美は出てこなかった。洗濯機を回そうかとも思ったが、菜々美に貸したスウェットとタオルのことを思い出してやめた。 秋斗はベッドに腰かけて、陽の光の中に浮かぶ細かな塵をぼんやりと眺めた。穏やかな休日の日差しの中でしか目にすることができない小さな塵たちだ。それらは床に落ちることなく、ずっと部屋の中を漂っていた。閉め切った部屋なのに、どうして塵は漂い続けていられるのだろう? 秋斗は自分には感じ取ることのできない空気の流れのことを考えた。それは彼に雨上がりの小川にできた小さな淀みを連想させた。時計の針は十一時を指している。今頃になって急に眠気がやってきた。早く熱いコーヒーが飲みたかった。 ☆☆☆ 菜々美には五つ歳の離れた姉がいた。唯華、というのが彼女の名前だった。 唯華は十年前の正月、つまり二〇一二年の一月に交通事故で亡くなった。十九歳だった。 「優しくて、誠実で、とても綺麗な女性だったわ。でもこんな風に言葉にしてしまうと、なんだかおとぎ話の冒頭みたいね」と言って菜々美は笑った。「むかしむかしあるところに、優しくて、誠実で、それは綺麗な娘がおりました、ってね」 秋斗は左肩に彼女の温かな吐息を感じた。時計の針がこつこつと乾いた音を立てて、真夜中の親密な空気を震わせていた。菜々美に歳の離れた姉がいたことは何かの折に聞いていたが、そこまで話してくれたのはこの夜が初めてだった。 「もちろん、おとぎ話と現実は違う。そういう一般化された表現ですっぱり説明できてしまうほど人はシンプルにはできてない。唯華の中にも矛盾はあった。はたから見れば優等生に見えたでしょうけど、彼女には自由奔放で執拗な一面があったし、清濁の区別があやふやなところもあった。それが彼女自身を不安定にし、周りの人を混乱させたりもした。でもね、その矛盾は彼女の良心や美しさを損なうものでは決してなかったとわたしは思う」 「事実はどうあれ、菜々美さんにとってお姉さんが有していた善い側面は疑いようのないものだった。だから菜々美さんは、あくまでおとぎ話のようなものとして彼女のことを記憶していたいと思っている」 「そうね、そうかもしれない。憧れていた人が死んでしまうと、いつの間にかその人の思い出に自分の理想を重ねてしまうようになるのかもしれない。きっと、若くて不完全なまま何者でもないうちに死んでしまった人の記憶には、おとぎ話のような一般化された容れ物が必要なんでしょうね」 あるいは菜々美は、思い出の中の細かな矛盾や小さな違和感に目を瞑ることで、姉に対する複雑な感情をなかったことにしてしまおうとしてるのかもしれない。なぜかはわからないが、それはとても危うい行為であるように秋斗には思えた。 「実を言うと、秋斗くんと初めて会ったときから、唯華に似ているところがあると思ってた。そうやって、月の裏側を覗き込むような目で人を見るところとかね。だから今日は唯華の話ができてよかった」 そこまで話してしまうと、彼女はやっと安心したように体を丸めて眠りについた。 秋斗は彼女が規則正しい寝息を立てて眠る様子をしばらく見守った。それから静かに目を閉じ、彼女がこれから見るはずの夢のことを想った。 もちろん、他人の夢を覗くことはできない。どれだけ言葉を尽くしても他者を十全に理解することなどできないし、どれだけ焦がれても恋する人の痛みを自分のものとして引き受けることなどできない。それなら、ぼくらがこうして言葉を交わし、時間を重ね合わせることによって続いてゆくこの日々の営みには、いったいどれほどの価値があるのだろう? 秋斗がその眠れない夜を通して考えていたのは、だいたいそのようなことだった。 2へ続く
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10月 2023
著者Yuya MASUDA |